自分が今幸せだと感じられる理由

 

今、本当にラッキーなことに、友人のお店の内装工事のお手伝いをさせてもらっている。自分の性に合っていること。好奇心が湧くこと。時間を忘れて作業ができる。これが楽しい。

自分で考えて、自分で手を動かして、それが形になっていく。本当に子供の頃の遊びをやっている感じ。

素人で自分のペースでやっているから、プロからしたら話にならないと思う。けれど、もう少し経験を積めばそれなりにやっていけると思う。

だから、これが仕事にできたらと思うと本当にワクワクする。やりたいと思える。このチャンスをもらえたことに感謝。

 

 

人が活動する原動力として、いろいろな要素がある。お金やいわゆる承認欲求、生活のため。

自分自身は、それらより、好奇心やワクワクを感じながら仕事ができたら幸せを感じられるのだと思っている。

そう思うのは何が原因なのか。そもそも、自分にとって何が幸せなのか。

 

第一に健康。何においても。健康ってだけで本当は幸せなんだなって思う。

今はまだ若いからだけど、この気持ちを忘れずに健康維持に努めたい。

 

そして、自分の時間があること。寂しいときももちろんあるけど、自分の時間がないと自分はダメなんだと心から思う。

 

お金の安心感。月に15万しか稼いでいない。でも月に必ず入ってくる。これだけで何も心配しなくていい。まぁ病気になったら話は別だけど。

でもこの何も考えなくていいということが何をするにも行動力の基盤になっている。

 

育った来た環境は、いわゆる仮面夫婦だった。それは自分も感じていた。それが原因で何も楽しくないと感じていた。

でも今になってそれは自分が幸せでないことを自分以外のせいにしていたのだと分かった。そして、愛情は自分が受け取らなかっただけで、充分にあったとも感じる。

理想の形があると思い込んで、それ以外に受け入れようとしなかった。

お金には苦労しなかったし、大学も行かせてもらえた。仲良くしている姿は見なかったけれど、ケンカしている姿も見なかった。唯一無二の学童保育所に通わせてもらっていろんな経験をした。今そこの友人のお店を手伝っている。

「大人になって分かる」って、本当に年を重ねないと実感できないんだよな。

 

お金に執着しない今を作ってくれたのは、育ってきた環境のおかげ。

お金は大切で、時に貪欲さを持たないと成功できなかったりするし、それが幸せだと考える人もいる。

でも、自分は違うし執着しないで生活する方が幸せだと思う。

29歳、1番端っこのルートを選択した

 

正規ルートなんて、まったく見当もつかないような1番端の方にいる。

浮き沈みのない日々だったけれど、どこかに分岐点は確実にあったのだろう。

 

自分の特徴は、思い込みが激しく何に対しても不安要素が目についてしまう。プラスを得るよりマイナスを減らしたい。

だから、自分から選択することを避けてきた。自分で選択して失敗したら、より凹んでしまうから。

けれど、選択しないことも1つの選択だったのだ。

今になって思うのだけれど、何かを選択して失敗したからって、それはただの人の営みとしてごく当たり前なこと。みんなそれを自然と受け入れて暮らしている。自分はそれが本当に恐ろしかった。

でも、そうしていると日々に何も生まれない。YouTubeとお酒。ただそれだけになる。

 

たいていの人は20代で就職し、切磋琢磨しながら自分の落としどころを探していく。自分はその経験をすっ飛ばしてきた。自分には本当に何もない。けれど、自分ではそれを実感していない。楽天的なのかも。

失うものがないという今の状況。歳のせいなのか自然と人目を気にすることも少なくなってきた。

すると、自分の視点がクリアになってくる。自分が何に興味があるのか。自分が何に問題意識や責任感を感じるのか。

ただのフリーターから見ても、適当な仕事をする人は多々いる。それは、人目を気にして表面的なポジションを守るために仕事をしているから。本当は誰も見ていないのに。

 

守るものがない自分だからなのか、その仕事になんの意味があるのかと思ってしまう。

極論、世の中の仕事の大半は無くなっても人は生きていける。そう考えれば、少しでも自分の興味のある分野を追及する方がワクワクするだろうし、仕事としてのクオリティも上がるだろう。

また、年を重ねるごとに人との繋がり切望するようになった。その糸口として仕事がある。仕事という社会活動は、人との距離感と緊張感がちょうどいい。生きる意味になる理由もわかる。自分もどちらかというとプライベートよりも仕事が好きになるタイプ。

 

まとまりがない文章であるが、現時点で用意されているルートでも自分次第で面白くできる可能性があるということ。諦めではなく。人はどんな状況にもある程度適応できる能力が備わっている。それをフル活用して、ワクワクできる時間を増やしたい。

お酒を飲む

 

引きこもりやらフリーターやら、のらりくらりを続けて、親のすねをかじってきて、

ぽんと一人暮らしを始めてみて、実感する。

 

これが社会の一員の雰囲気なんだと。

スーパーで買い物して、料理して、運動して、YouTube見て、洗濯して、散歩して、夜風を浴びて、お酒を飲んで。

 

お金を稼ぐ時間が必要で退屈だから、それ以外の時間が生きる実感をくれる。

これが人間の活動なんだな。

誰も教えてくれなかったけど、みんなが当たり前にやっている。

 

もう遅いのはとっくに分かっている。

でも、今はちょっとした変革の時代で、隙間がある。そこに入り込む。

どうせAIに変わるなら、好きなこと、納得のいくことに進んでいく。

それをどこか許されているようなそんな時代。

 

最終的に行き着くのは人の温もり。

そこと自分との距離感を探りながら、暮らしを楽しむ。

 

平凡な人は、自分の時間とお酒があれば、たいてい幸せになれると思う。

いろんなことが許せてくる。

これは若いうちだけかな?

無理に情報を得るくらいなら、ぼーっとしてた方がいい。

 

今は情報社会。

毎日必要以上の情報に触れる。

 

今日本当に必要だった情報は天気予報と、バスの時刻くらいだろう。

しかし、今日はその2つ以外に、200くらいの情報に触れたと思う。

それは、人間としての欲求とか、反射的にとか、日々の不安などから気になって見てしまう情報。

でも夜に振り返えると、せいぜい2、3個くらいしか思い出せない。

 

そういう情報に触れるくらいなら、好きな音楽を聴いたり、映画を見たり、散歩をしたり、筋トレしたりしたい。

そういうシンプルな選択をしたい。

そっちの方がリラックスできるし、本当の自分の時間を過ごせる。

 

仕事選びもそう。

成長速度の加速した競争社会で、自分の居場所を探そうとすると、どうしても頭でっかちになってしまう。

でも、最初の一歩って、シンプルな選択しかできない。

 

もっとシンプルに、自分の時間を選択していきたい。

トランスエイジなのか

 

昨今は多様化が進み、性自認から思想、価値観まで様々なことが人それぞれだよねという空気感が広まってきた。

 

最近では、自分の実年齢と、自認している年齢に違いがあるトランスエイジという概念が生まれている。

 

最近まで自分のことをアダルトチルドレンなのかなと思っていたけれど、経験不足からくるトランスエイジなのかもしれない。

 

ただ、実年齢にコンプレックスを持っているわけではない。

年齢を気にせず、自分のやりたいことをやりたいタイミングでやるということが、心に健康的で、活動的になれるのだと思う。

 

学生の頃は、なんのために勉強をするのか分からなかった。

今になって、自分に知識や経験を身につけることで、自分の役割や価値を見出し、社会で人と対等にコミニュケーションを取り、いきいきと自分の人生をつくることができるのだと実感している。

 

これに気づくのが人よりだいぶ時間がかかった。

もう取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。そう思って、思考停止している時間も多分にあった。

でも、その時間さえも否定せず、まあいっかくらいで受け入れる。

今でも、さんざんYouTubeに時間を割いている。でもそれでいいのだ。

 

失敗を恐れて、前に進むのをためらっていたが、失敗してもまたそこに戻るだけ。

一番下を経験したからこそ、戻る場所が想像でき、不安がなくなる。

何事も無駄な経験はないのだろう。

 

今は、興味のある仕事に早くついて、毎日勉強して、たまにお笑いのライブに行ったり、旅行に行ったりと、普通の社会人生活を送ってみたいと心から思うようになった。

 

ちょっと前までは、どうせ自分はという思考でいっぱいだった。

人生生きていれば、自分のペースで進んでいける。

ここ1ヶ月で考えている2つのこと「ランニング」「好きなことをやる」

*2021年5月頃に執筆したが、修正しているうちに掲載し忘れていた。

せっかくなのでこのタイミングで掲載する。

 

はじめに

文章を書くことや自分の思いを形にすることは、人間の中にあるとても豊かな欲求であり、それをどんな形でも表現することが様々な可能性を広げることに繋がる。

私は専門家ではないし、なんの知識もない。かといって、私見を文章に起こし、全世界に公開することはやましいことでもなんでもない。

恥ずかしいとか無責任だとかを自分で決めつけてなにも行動しないことこそ一番の悪だ。という所存(自己肯定)からいろいろ思うことを書いていきたい。

 

 

1.ランニングは睡眠であり、瞑想である。

4月の初め頃からランニングを久々に再開した。寒い季節はなかなか腰が上がらなかった。始めて一週間ほどは、全く0の状態に体力が落ちていることにややショックだったが、まぁその時その時のできる範囲でやればいいと、気軽に続けることにした。物事が続かない自分の対策として、やる気がなかったら無理にやらなくてもいい。ただ外に出て散歩はしようと決めて、外に出ることは約束にした。そうしてやる気のない日に、ランニングという文字が頭に浮かぶと、まぁ散歩でいいからとりあえず外に出ようというポジティブな気分でウェアを着て外に出ることに成功した。外に出てしばらくすると、せっかくだからと走り始めるのだ。こんな感じで今のところ楽しく走り続けている。

この低いハードルからこなしていくという方法は、今やどこでも言われている方法で、知っている方も多いはず。やはり効果は高い。

また、プレッシャーに弱い自分は、何キロ走るという目標を設定をせず、ペースもその時々で自由に変えている。スロースターターな性格もあってか、大体今日はこのくらい走ればいいかなというところで、いや、追加でもう少し走るかという気になり、最終的には結構な距離を走れている。

楽しんで継続するには、自分のスタイルを把握することが大切なんだなと実感している。

導入部分が長くなってしまったが、ランニングを続けていて思うことを書いていく。

ランニングの有用性はもはや言うまでもないほど耳にするようになった。これはもう、歯を磨いたり、お風呂に入ったりするレベルで健康的な生活には欠かせないものだと言っていい感じがある。

まずその短時間で、余計なことばかり考えていた脳を一旦リフレッシュしてくれて、自分の思考の中の何か本質的なものにスポットを向けてくれるような感じがする。

体力的な自分の限界に気づき、追い込みが甘い自分に気づいたとき、自分の今いるレベルが見えてくる。その主観が見えた上で、自分の普段の振る舞いや、他者への関わり方、自分には何が足りないのかなど、客観的な視点に思考をのばすことができる気がする。

これは睡眠による脳への効果や、瞑想によるマインドフルネスなどに近いようなものではないだろうか。

しかも、その状態はランニングを終えたあとも長時間継続する。SHOWROOMの前田社長が、朝にランニングをやっているというのもこれで納得できる。ビジネス用語で言えば、費用対効果がものすごく高いということだろう。

なんだかありきたりなことを並べてしまったが、ありきたりなことにこそ本当に大切にしたいことが詰まっているんだと受け止め、ランニングに励もうと思う。

 

 

2.どうせ何も必要ないなら、好きなことをやる

僕の住む地域は節約しながらであれば10万円ほどで暮らしていける。東京や大阪などの都会に住まなければ、他にも10万円程度で暮らしていけるところは割と多いと思う。

10万円は、時給900円で考えると8時間×14日働けば稼げる額だ。

本当に必要最低限の額だが、これだけあれば暮らしていけるのだ。生きる上でこの額があればいいと思うと、これから先どんな失敗をしても生きてはいけるなと思える。

ここでやる気を無くしてただその額を稼ぐ道に進んでもいいわけだが、せっかくなら自分はどこまでできるのかを確かめてみてもいい。

僕は今まであまり成功体験を積んでこなかったせいか人と競うのが苦手で、モチベーションの管理ができず、何かに挑戦しても失敗することが多かった。

しかし、何をしてもいいという気になれば、逆に自分の人生でいろいろ試したいことが浮かんでくる。自分の人生を実験の場と捉えることで様々な情報にポジティブに触れることができるようになった。

何かをしなければならない、こうあらねばならない、といったある種の強迫観念はとても強いパワーを持つ。そのパワーはいい方向に転ぶこともあれば、悪い方向に転ぶこともある。

自己肯定感の低い人はそうした強迫観念、または自己暗示によって、窮屈で臆病な状態に陥り、失敗を恐れて何もできなくなってしまうと言う経験を何度もしている。

しかし、何でもやっていい、失敗してもいい、というマインドで物事にあたると、じゃあ試しにやってみようかなと一歩前進することができる。

どうせ命は終わりを迎える。ふと考えると、人は自分のことしか考えることができない。

ならばどういう風に時間を使ってもいい。ましてや、自分のために使った時間が自分を作る。天才でなければ、自分自身で経験したことでしか成長できない。誰かのためになりたいと思った時に、その主体がなければ誰も支えることはできない。

結局はやりたいことをやるというのがその先に繋がる大切な道なのだと思う。